久しぶりに心を打つ作品を見た。「
ブラッド・ダイアモンド」(Blood Diamond) 「血塗られたダイアモンド」とでも訳せばよいのだろうか。紛争地域におけるダイアモンドの強制採掘に纏わる悲劇を描いた映画である。
ストーリーは、美しいからという理由だけで、生産・流通の過程に何があるかを考えずにダイアモンドを求める現代人と、輝いたダイアモンドなど見たこともなく、ただただ原石を強制的に探すことを強要されている人たちの悲哀が、セリフが少ないにも関らず、巧妙なカメラワークによって、緻密に表現されていた。
物語の中心は、当然のことながらダイアモンドであったが、この映画を見ながらかんがえたのは、現代人の生活が、いかに多くの世界、人の手を経て成り立っているか。という事であった。
資本主義社会に身をおいている我々は、欲しいものの対価としてお金を払う。お金を払いさえすれば、欲しいものが手に入る。その行為が社会に対してどういう影響を与えるかという事を深く考えもせずに。
生産現場の苦労を何もしらずに、求めたいものを求め続けている現代。
コンピュータの世界において、カオス理論というのがある。俗ないいまわしだが、理論の概要を簡単に表現すると「中国で蝶が羽ばたけば、いずれはその小さな羽根が起こした空気の対流が、北米でハリケーンとなるまでに成長する」。といった感じだ。つまり、初期値としてのほんのわずかな入力が、出力結果に対して大きく影響を及ぼすという事である。
およそ、理論としてのカオスは確立されつつあるが、その初期値過敏性ゆえに、現実世界のモデリングとしての妥当性はいまだに妥協点を見出せていない。
話が多少ずれたが、私がこの理論を持ち出して云わんとしたかったのは、我々ひとりひとりの行動は、各々独立しているが、独立しているようでいて、結局は独立しておらず、相互依存関係にあるという事である。
つまりは、環境問題、地域間格差、その他諸々の問題。現在、われわれが抱えている問題の多くは、関わる者全てがある種の方向性を持って行動しなければ解決の難しい問題であろうという事である。
このような方向付けには、2つの方法があると考えられる。
一つは、法律としてルールを定め、政治の力で行動を導くこと。
もう一つは、社会文化的背景を機軸に、規範として「なんとなく自然とそういう振る舞いをしてしまう。しなければならない」そういった雰囲気を醸成することである。
この二つの方法は、卵が先か鶏が先か、的な議論に似ているが、本質的には全く異なると考えている。
わたしは、地域間格差はあって然るべきだと考えている。ここでいう格差は、人間で言うならば個性とでも言おうか、経済的な利便性としての格差であって、人間生活としての豊かさではない。人それぞれ、向き、不向きがあるように、地域においても、農業に向いた土地、林業に向いた土地、交易に向いた土地、それぞれの個性にあわせて強みを活かす必要がある。 都会には都会の利便性があって然るべきだし、田舎には田舎ならではの自然にかこまれた豊かな暮らしがあって然るべきだと考える。それを、一様に経済発展という名の下に、一律に都市化を目指し続けるのであれば、現状でさえ悲鳴をあげはじめている地球の寿命は決して短くないであろうと感じずにはいられない。
どこに行っても同じ風景が見える。予想しうる景色ばかりの生活は、極めて退屈だ。